母と猫の夢を見ました。

昨日の夕方、昼寝というか夕寝をしていて、夢を見ました。

母と猫と一緒に、昔の家で過ごしている夢でした。
野良猫に襲われたうちの猫を、必死で助けたりしていました。

いまは母も猫も亡く、家も既にありません。

こういう夢を見るのは珍しくなく、夢から覚めた後の喪失感にも、もう慣れています。

ただ、もういない猫に向けられた必死な感情の名残がリアルで、小説「リプレイ」の主人公の気持ちが、身に染みてわかった気がしました。

かつて持っていたものを失うというのは、元から何も持たないよりもずっと、胸の痛いことであるのですよね。

それと、昨日はちょっと、何とも言えない感覚がありました。

これから先、もし私が友達や身内より長生きした時は、やっぱり彼らを夢見たとき、こういう感情を持つんだろうな、と。

友達や身内と過ごす幸せな時間が多ければ多いほど、別れた後に過ごす時間が長いほど、こういう喪失感は増していくんだろうな、と。

まあ、下手に長生きしないで、一足お先に逝けば良いだけのことなんですが。
(ただその場合、友達や身内にこの心の痛みを与えることになるのかもしれないので、やっぱりわたしが長生きしたほうが、いいのかもしれないなあ…。)

よく考えれば、何も失ってはいないんですけどね。

失ったのは、目に見えて、手が触れられる、五感がとらえる狭い世界の、さらに「いま」という時間上の1点においてだけの接点。

かつて触れ合った人や猫、彼らと分かち合えた時間と世界は、何一つ欠けることなく私の中に存在していて、これからも存在し続けるでしょう。

本当は、それだけで、十分。

それと、何の根拠があるわけでもないのですが、彼らと完全に分かたれてしまったという感覚は、わたしにはないのです。

死後の魂の存在については、「わからない」ので、生前の彼らの持っていた魂と、再び会うことができるのかどうか、それは分かりません。

ただ、彼ら含めいろいろな生命体がたどった生命と死の道、みなが通った道を、やがてわたしも行くのだと思うことには、少しの安心感を感じます。

あとは手塚治虫先生が火の鳥で描いた、魂の集合体、魂が個々でありながら全体として一つである大いなる生命の流れへと還っていくというイメージも、わたしの中に確かにあります。

原子、素粒子レベルでいえば、わたしも彼らも同じこの宇宙の一部であったし、今もそうであるし、これからもそうだろうという意味で、このイメージに近いものがあります。

それでも。

これからも、彼らの夢から覚めたときには、わたしは喪失感を覚えるのでしょう。

これは、わたしが彼らをとても好きだった、好きであるという、その想いの強さの証なのでしょう。
喪失感の深さは、対象へ向けられた想いの強さの裏返し。一緒に過ごした時間の、輝きの裏返し。

他者と心をつなぐことがとても下手だったわたしにも、これほど愛することのできる対象がいたということ。

(仏教でいえば「執着」なのでしょうが、これを捨てると人間ではなくなってしまうので、人間である今は、敢えて持っていていいもの、持っていて当然なものとして受け止めておきます。)

だから、この感覚は、大切なもの。

これからもこの甘い痛みを抱いて、この甘い疼きと共に、生きていこうと思います。

そうそう。

昔は、「かなし」は「愛し」とも書いて、「しみじみといとおしい」「心が惹かれる」という意味をも持った言葉でした。

何かを強く大切に思う心の働き、何かに強く惹きつけられる心の動きという点で、「かなしい」と「いとしい」は非常に近いものであり(「せつない」という言葉の意味と重なる部分が多いかもしれません)、根底に不可分なものがあるのではないかと思います。

また、何かを愛するということは、いずれ来るその対象との別れが不可避なものである以上、根本的に「かなしみ」を最初から含んでいるとも言えます。

そうだからと言って、「失って悲しむくらいなら最初から愛さない」という選択肢は、ないんですけどね、人間である以上は。

だから人は、根源的に「愛し(かなし)」い存在なのだとも言えそうです。

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