できない理由なんて、いくらでも見つけられるけれど。

昨日、取り上げたフィンランドでのベーシックインカム試験導入ですが、某掲示板で取り上げられていました。

ちらっと読んでみたところ、まあ、ものすごい否定のされよう(ベーシックインカムという制度の日本への導入が、です)。

ひたすら「できるわけない」「無理」「絶対うまくいかない」というのを、数字を並べて延々とやっていて、日本での導入は難しいと思っている私も、「そこまで否定しなくても」と思ったくらいでした。

実際、日本では、社会保障費はこれから増大していく一方だし、働く人は減っていくしで、財源が厳しい。

生活保護などの既存の制度の代わりに導入するとしても、その制度で利益を得ている人たちの猛反発は避けられないでしょう。

それに日本人は先例のないことはやりたがらない性質。他の国が導入して、成功したのを見てから…という気質です。

でもそれにしても、「頭ごなしに「無理」と言い切るのは、何か違うんじゃないか」と感じました。

で、少し考えてみて、その「違うんじゃないか」と思った理由に気付きました。

「できない理由」を並べ立てるのは、割と簡単。

なぜなら、今現在そうなっていない(できていない)んだから、現状を分析して、そうなっていない原因を挙げていけばいいだけだから。

でもこのやり方、実は、未来のことを考える時には、あまりあてにならない。

現在の状況をもとに、「できない理由」を並べるのは、
「現在、こういう状態だから、今後もできない」
と言っていることになります。

これは、現在の状況が変化なくずーーっと続くと思っている、または、続けようと思っていて、変える気はない、と言っているということ。

でも、未来ってそういうものじゃないですよね。

現状を分析して未来がわかるなら、天気予報も、アナリストの株価予想も、全部当たっていなきゃおかしい。でも、現実はそうはなっていない。

もちろん、天気予報はある程度は当たるし、予想することに意味がないなんて言うつもりはありません。

ただ、それが万能であるとは誰も言わないでしょう。

特に、これから先どうあるべきか、何が必要かということについて考える時、
「今こうだから、これからもずっとこうだ」
で押し通していたら、わたしたちは今でも横穴式住居に住んで、狩りや植物の採集で暮らしていたんじゃないですかね。

いや、今も木の上で暮らすサルだったかも…

いやいや、海から陸に上がることすらしていなかったかも…

(彼らが「そうすべきだ」と思ってそうしたかどうかは分かりませんが)

とにかく、未来について考える時、大切なのは、「できない理由」じゃなくて「できる理由」のほうだと思うのです。

これから未来に向かって、まいていく種が必要だと思うのです。

種をまいて世話をして、陽が当たって時が来れば、必ず種は芽吹く。そのために今、種をまく。そういうことではないかと思います。

今を考える時、「どんな種がまかれたから今こうなっている」というのは過去の話でしかないように、できない理由を1000も2000もつけるのは、過去の話をしているに過ぎない。

それは、「これまでこうだったから、これからもこうである」と思考停止しているに過ぎません。

未来を話すとき、必要なのはそんなことじゃなくて、「これからどうするためにどんな種をまくか」こそが必要なのではないでしょうか。

そういえば、サラリーマン時代(といってもちょっと前ですが)、「できない理由じゃなく、できる理由を探せ」という言葉を聞きましたが、それはこういう意味だったのかな、と今は思います。

ただ、そういわれてもサラリーマンとしてのわたしは、反発しましたけどね。なぜなら、やれと言われたことに、意義を見出せなかったから。意義を見出せないから、できる理由も探せない。できない理由しか思いつかない。

仕事の成果に意義を見出せなかった、つまり会社と、目的意識を共有することができなかった。労働者としてはホント、失格です。

ベーシックインカムを執拗に否定していた某掲示板の人も、ベーシックインカムという制度に何の意義も見いだせないから、できない理由ばかり探している、ということなのかも知れませんね。

ともあれ、未来を考える場合の方法には、

・「今こうだから、未来もこうだろう」と、結果としての「今」から考える

・「未来こうなるように、今こうしよう」と、未来の原因としての「今」から考える

の二つがあると思います。

そしてまた、二番目の方法は、その未来に意義があると思えなければ、身の入らないものでもあるとも思います。

おそらく、夢が叶うか叶わないかという話も、これと同じなんでしょうね。

今見えている「現実」の延長線上に夢を置くのか、未来に置いた夢に向かって、今の「現実」から見えざる線を引くのか。

そして、本当にその夢が自分にとって意義のあることなのか(本当にやりたいことなのか)。

その夢が自分にとって本当に意義のあることだと思えて、その夢に向かって、すぐに結果は出なくても種をまいて育てていくことができれば、きっと夢は叶うんだろうな、と思います。

ベーシックインカム制度についてのとある反応を見て、「なんか違うんじゃないか」と思ったことから、面白い気付きを得ることができました。きっかけは、いろんなところに転がっているものですね。

ついでに、以前、夢の叶え方について書いたときの記事を貼っておきます。

「夢なんてどうせ叶わない」という不信感に対して、「夢が叶わない理由」を調べてみる
早期リタイアすることが最善なのか。勤めたままのほうが、金銭的余裕もありやりたいことができるのではないか。それにどうせ夢見たことなんてかなうはずがない…という、内面の声。夢がかなわないのには理由がある。その逆をいけば、夢はかなわないものではない、ということ。

それから、未来を考える時の二つの視点について学ぶところの大きかった、安積力也さんの「教育の力」から、一部を抜粋させていただきます。

「希望を持つ」とは、どういうことなのか。それは、当然「未来」に望みをかけることです。いまは実現していない何か「よいこと」が、いつの日か実現すると期待することですね。

では、今は実現していないのに、なぜ、そのような期待が持てるのか。ふつうそれは、いま見える現実のなかに、そうなる可能性の根拠となるような状況が少しでもあるからです。そう期待できる一縷の見通しがあるからです。その見通しがどこにも見出せないとき、私たちは「絶望」するしかない。

ところで、未来を見通そうとするとき、そこには二つの異なる見方、というか、二つの思惟方法があると思います。「結果」からの立論と、「原因」からの立論。

ふつう私たちは、いままでに起こったことの「結果」を見て、今後を判断しようとします。

(中略)

さて、それに対して「原因」からの立論は、「いま」を、未来に起こる出来事の原因として見ます。過去の出来事の結果としての「いま」は、明日の「新しい結果」を生み出す「原因の宝庫」でもあるのです。

先ほどお話しましたように、地中深く宿された種は、「時充ちて」初めて、見える地表にあらわれます。

そのように、「見える現実」の背後に、いまは見えなくても、深く成長し進行していく「もう一つの現実」が存在しうるのです。その「見えざる現実」を見つめ、そこから未来を見通そうとするのが、原因からの立論です。

それは、見える現実がどんなに暗黒に包まれていても、確かな根拠をもって未来の「希望」を洞察し、確信する眼差しです。

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